2025 / 03 |
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自分の記憶の始まりは、体にまとわりついた鬱陶しいほどの水気と、叫ぶような人々の声だった。
――――――――――西暦、2308年。
「こんにちは!」
――――――――――地球連邦軍独立部隊『アロウズ』。
「おや、中将に着替えを?」
――――――――――本部、
「はい。あ、母と作ったクッキーも持ってきました!食堂に置きますので、皆さんでどうぞ!」
――――――――――上級仕官棟。
「あぁ、もらうよ!フェイト嬢」
入室を求める声に苦笑して、ウィドル・フィディアナ中将はデスクの上の書類を脇へと寄せた。
「入りなさい」
『はい。失礼します』
その声と共に、ドアが開く。そこにいたのは、右手に紙袋とバスケットをもった少女だった。
「悪いな。着替えを持ってきてもらって」
「いいですよ。お仕事忙しいんでしょう?これは母様からです。サンドウィッチと紅茶」
「あぁ…ありがとう。フェイト」
少し褐色が入った中東系の肌。
真っ黒な、夜闇を溶かして固めたような長い髪。
ピジョンブラッドを嵌め込んだような赤の瞳。
目の前に立つ少女は、ウィドル自慢の娘だ。
とはいっても、養女として迎え入れた義理の娘。ウィドルは彼女を自分の娘として、家族として溺愛している。
彼の妻も、独り立ちして家を出た子供達も、四年前に迎え入れた少女を家族として愛している。
特に末っ子だった次男は、可愛い妹ができたと、研究所の寮から度々帰ってくる。
「父様。母様と、ジンジャーマンクッキーを焼いたんです。たくさん作ったので食堂の方にお裾分けしてから帰りますね」
「あぁ。皆も喜ぶよ」
その言葉に、フェイトは微笑む。
彼女と出会った当初、フェイトは表情も少なく、意志疎通に苦労したものだった。が、四年でここまで。家族と、同年代の友人の努力の賜物だろう。
そういえば、
「…ハレヴィ準尉が、一月後、作戦の為に宇宙に行くとのことだ。準備もある。しばらく会えないだろうから、今のうちに会っておくといい。初めての実戦配備で、緊張しているようだ」
「はい!ありがとうございます」
一礼して退室する背を見届けて、ウィドルはため息をついた。
「もう四年…か」
彼女が湖の畔でびしょ濡れで倒れているのを発見して病院に運んだのは、今から四年前。
ソレスタル・ビーイングとの死闘から一月も経っていない日のことだった。自分は、妻と戦いで傷ついた傷を癒すための療養として、二泊三日の旅行に来ていた。
「……」
かなり衰弱していた彼女は何日も魘され、死んでもおかしくない状態だったと、後から医師に聞かされた。
それから、意識不明のまま大きな病院に転院した彼女を妻は気にかけて何かと世話をしてやり、それは意識が回復した後もそうだった。
意識が戻ったとき、立ち会ったのは妻と、好奇心でついてきた長女だ。
少女は、目が覚める以前の、すべての記憶を失っていた。
記憶もなければ、一般常識についても僅かに理解している程度。
そんな少女に病院のスタッフや妻は色々と教え込んだが、更なる問題も発生して大変だったのだ。
そんな始まりから約一年を経て、娘として迎え入れたのである。娘一人に息子三人では、可愛い十代くらいの娘を引き取りたいと思うのも必然だろう。おかげで妻は生き生きとしている。
『フェイト』という名は、彼女の持っていたもののなかで辛うじて読めたイニシャルがFだったからだ。自分達が彼女と出会えた『運命』に感謝して。
「…さて、明後日には帰りたいな」
我が家には、愛する妻と可愛い娘。
そして、二人の孫もいる。
「ルイス!」
「?…フェイト!久しぶり、中将に届けもの?」
食堂で一人昼食をとっていたルイスは、自分を呼ぶ声に振り向く。そこにいた長い黒髪の少女にルイスは朗らかな笑顔を向けた。
「うん。着替えと軽食。母様から頼まれて」
その言葉にルイスは辺りを見渡すが、少女の周りにいつもいる小さな子供二人がいない。置いてきたのだろう。
ならば、と席を勧める。職場で会うのは久しぶりだ。
子供達がいないなら、少しは話せる。
「一月後には宇宙だって聞いて、」
「そうなの。ジンクスに乗ることになるみたい…。ちょっと不安だけど、頑張るわ」
訓練でしか乗ったことはない。それがいきなり宇宙でだ。
作戦行動にも参加するらしいと聞いている。
不安じゃないと言えば、嘘になる。
でも―――――
「ルイス、大丈夫…?」
初めて会った時、どこか既視感を覚えた彼女を。
危なっかしくて大切な、この少女を守りたい。
「ルイス…?」
「…大丈夫。必ず、無事に帰ってくるから」
そうだ。
自分は今、守るためにここにいる。